画家「倉石隆」との出会い
今年の一月、日経新聞に私のクリニックが紹介された。この記事は高田高校交友会東京支部のホームページにも載せていただいたので、ご覧頂いた方もいらっしゃると思う。
この記事を見てクリニックを訪ねてくださった老婦人がいた。病気の話しが終わった後、ボクの経歴が書かれたパンフレットを見て、「あらっ、先生は新潟のご出身なんですか? 新潟のどちら?」
この会話から画家「倉石隆」に出会うことになる。

数日して彼女は倉石夫人の手紙を添えた画集を携えてわざわざ再訪してくれた。そこには倉石隆なる画家の経歴が詳しく書かれていた(別記)。
聞くところによれば、倉石夫妻とは彼女のご主人が心臓病で入院していた時の病院で知り合ったとのことである。倉石隆は晩年、脳梗塞で半身麻痺となり、リハビリに通っていた。亡くなられた後も、ご婦人同士の交流が続いているらしい。
交友会名簿をめくると、中40回(昭和8年卒)倉石隆壽とある。同級生には交友会ゴルフコンペにいつもお元気に参加される野口春雄さんの名前が見える。ボクの同級生の高波さんのお父さんの名前もあるではないか。一気に彼に近づいたような気がした。

台風のような強風が吹く5月の連休の夕方、練馬区内にある彼のアトリエを訪ねた。ピアノ教師である(今も現役で教えてらっしゃる)翠夫人は小柄であるが、非常に上品な雰囲気を漂わせている。木の生い茂った庭に囲まれた古びたアトリエに入れていただいた。眼に飛び込んできたのは高い天井と絵の具が落ちたままの床、そして壁一面に飾られた倉石の絵である。ボクは彼の絵に圧倒され、しばらく佇んでしまった。絵のことは全くど素人のボクにはよくわからない。ただ、壁に無造作に掲げられた人物像は暗い。ほとんどが一人、痩せこけた裸婦の絵が多い。なぜか彼の絵のもつ迫力は高田の出身だからと思えた。
「私が死ぬ前にこの絵を何とか愛好家に見ていただきたい」
ボクはこの翠夫人のお言葉を聞いて何とかお役に立ちたいと思った。彼女の又従兄弟の大潟町の医師が20点ほどの作品を収蔵した「美術室」を作るつもりだとか。しかし、高校の先輩が残した数々の名作品を個人の趣味で集めるのはなんだかもったいない気がする。思えば「文化都市・上越市」には、道路や立派な箱物はできても公的な美術館はない。我が古里に「倉石美術館」を実現してくれる篤志家が現れないものだろうか。

<経歴>
1916年 高田市本町5丁目に倉石源造の次男として生まれる(本名:隆壽/たかなが)。
           父親は初代高田市長を務めた。
1933年 旧制高田中学卒業(中40回)
1936年 太平洋美術学校に学ぶ
1947-50年 高田北城高校に勤務
1964年 主体美術協会を結成
1971年 渡欧
1987年 脳梗塞発症
1998年 死去
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