格差
ここのところ「格差」という文字や言葉がメディアに流れない日はない。
そもそも「格差」とはなんであろう。おそらくこの場合は「格差社会」という意味で用いられているようだ。
 
占領国がアメリカだったからとはいえ、第二次世界大戦後、我が国は自由主義経済体制を選択した。
高度成長期、安定成長期の時代は終身雇用で安定した収入が得られ、その結果「一億総中流」と言われるほど、「平等」であった(と少なくともみなそう思っていた)。
ところが91年のバブル崩壊により雇用形態が変化したことや、高齢化社会到来や少子化問題などの将来不安、そして相変わらず解消されない東京への一極集中による地域間格差などが加わって、「経済」、「教育」、「社会的地位」の三点から格差が論じられるようになった。
さらにはマスメディアによるいわゆる「セレブ礼賛」番組など、バブル期には中流階級の憧れとして捉えられていたものが、「格差被害者意識」を逆なでするようにすらなってきた。
 
実際に格差があるかどうかは別にして、格差があってもよいか悪いかというのは価値観の問題である。また国際社会において先進国と言われる欧米との比較において格差の有無を論ずるのは必ずしも妥当ではない。なぜならアメリカ合衆国やEU内での格差は日本の比ではないからである。
だとすると我々の社会において(このこと自体が無意味なのかも知れないが)どこまでが妥当かと論ずることも意味がないような気がする。一般に格差を肯定するのは、当然ながら自身が恵まれた立場にあるからであり、「格差論は甘えである」とか「格差は能力の差である」という発言は傲慢に捉えられがちである。
つまり格差は結果なのであって、その結果を生む背景に機会不均等や不公平といった差別がないかを論ずることの方が大切なのだと思う。その点について議論しない「結果格差論」が横行しているような気がしてならない。
 
ソ連邦をはじめとする東欧共産主義経済が崩れた一方で、唯一残されたと言って良い共産主義大国中国が今や日本以上に資本主義化して格差を生んでいることは皮肉である。
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